ナンパにより物事の真理を探究する

ナンパについて思うところを語っています。基本的には自分の行動の振り返り用として書いていますが、参考になる点があれば幸いです。

取り敢えずの即

先日、とある方々とクラブへ行った。

大阪での惨敗やアポの惨敗を引きずってか、調子はいまいちだった。

 

クラブ終了の30分前、1人でぼぉーっとしていたら、隣に女の子がいたので、話しかけた。

よく見ると、その子の隣に女の子の友達がいて、その子と話していたのは、一緒にクラブに入った方々のうちの1人であった。

そして、セパってくれた(本当、ありがとうございました!)。

 

女の子は、少し酔っていて、「寿司食べたーい!ざんまい行こう!」と言っていた。

それに対して、取り敢えず「おう!行こう!」とノリよく答えておいた。

あまり和む時間もないままクラブが終了してしまったが、取り敢えず2人で出ることにした。

外へ出ると、雨が降っていた。

その子は肩が出る服装をしていたので、私は寒さを気遣い、腕を包んで温めてあげた。

そして、私は、「取り敢えず、タクシーで行こう」と、行先は告げずに提案し、了承を得た。

タクシーを止め、運転手に対し「〇〇まで」と私の自宅のある場所を告げた。

そこは、寿司ざんまいがある場所ではない。

しかし、彼女から特に文句を言われたり、形式グダ的な発言をされたりはしなかった。

自宅前に到着したときも、特に不平や不満を漏らされることはなかった。

で、いわゆるノーグダで、セ〇クスをした。

 

特に技術を用いたわけではない。

むしろ、一緒に行った方のアシストのおかげである。

それでも、最近の調子からすれば、結果が出たことは喜ぶべきだろう。

過程も大事であろうが、最近は、結果に慣れることも必要だと考える。

 

余談であるが、その子はとても感度が良かった。

すぐにイクし、気持ちがいいことを全快に表していた。

こういう子とのセ〇クスは楽しいなと思った。

セ〇クスもコミュニケーションなのかもしれない。コミュニケーションにおいても、相手の反応ないしリアクションが大きい方が楽しく感じると思う。


私は、セ〇クスを特別で神聖な行為であるかの如く捉えてしまっており、変に意識してしまう癖があるが、

セ〇クスをコミュニケーションの一種にすぎないと簡単に捉え、自然で軽い感じでできるようになれば、もう少し成果が出るのではないかと思う。